1926〜1935年

製品だけでなく、販路開発にも先見の明 

徳次には技術者としての才能だけでなく、徒弟時代に経験した夜店での鉛筆売りで身につけた商才にも、秀でたものがありました。ラジオ放送網が都市圏から地方へ広がっていくのに合わせて国内の販売拠点を全国へ拡大していき、さらに、鉱石ラジオの開発の翌年、1926年には、輸出を開始。
中国、東南アジア、インド、南米など、海外へもラジオや部品を届けはじめました。
また、販促のための「ラジオ見本市」の各地での開催、あるいは車を連ねての「キャラバン隊」、販売店を巡って製品への要望や改善点を聞き出す、いまで言うところのフィールドマーケティング活動を取り入れた「歴訪研究会」、販売店に利益を再配分する「福利券」制度…など、製品のアピールと同時に、販売店やユーザーからの声をしっかりとすくい上げました。
これらを製品づくりや販売に活かし、販売店にも健全な利益を約束する、近代的なビジネススタイルをすでに手がけ始めていたのでした。

1926〜1935年