1998年。町田社長が「国内で販売するテレビは、2005年までにすべて液晶にする」と宣言したときは、「はっきりいって30型が限界かなと思っていました」という。液晶一筋で歩んできた男ならではの正直な感想だろう。液晶がブラウン管に追いつく。いや、ブラウン管でも到達できなかった領域まで液晶を進化させなければならない。亀山第2工場のプロジェクトの困難さをだれよりも理解していた彼は、社内の技術者やプロジェクトを支える外部の企業に、こう呼びかけた。

そのフレーズは、過去のある仕事から生まれた言葉だという。

矢野は、シャープが世界初の液晶表示付きCOS化ポケット電卓を発売した前年の1972年に入社。すぐに液晶電卓プロジェクトに配属された。以来、ほとんどの期間を液晶技術の開発に費やしてきた。
電卓から時計と開発を進めていた矢野にショッキングなニュースが飛び込んできたのは1983年だった。他社が3型の液晶カラーテレビを発表したのだ。シャープとは方式こそ異なるものの、それはまぎれもなく「平面テレビ」だった。
だれも作れなかったものを作った技術者たちへの尊敬の念と、なぜ自分たちが作れなかったのかという後悔の念が入り混じった。シャープは国産初のテレビを開発した企業である。平面テレビに関しても、さまざまな方式で研究を進めていた。彼はその当時、シャープが蓄えていた液晶技術でテレビを作ることはできたはずだという。「足りなかったのは、“チャレンジ精神”だけでした」。
いま、若いエンジニアに向かって「迷ったらGO!だ」と檄を飛ばすのは、技術者としてのその時の悔しさをいまも忘れられないからだ。
シャープはすぐ3型の液晶テレビを商品化し、他のテレビメーカーも巻き込んで4型、5.5型の小刻みな「大画面化」競争に入る。次は6型か。いや、それでは他社の後追いに過ぎない。「記憶に残る仕事にしよう」と開発に励んだのが、それまでの常識を覆す14型の液晶テレビだった。世界中で反響を呼んだ14型というサイズは、はじめて液晶がブラウン管に変わりうるディスプレイだと示した瞬間でもあった。


2004年に稼動した亀山第1工場で生産する液晶テレビ(パネル)は、サイズ、画質、消費電力、あらゆる面で液晶がブラウン管を追い越したことを示した。そして2007年1月。シャープは世界最大108V型※1の液晶テレビを発表した。矢野が、「せめて20型まで大きくできれば壁掛けテレビが実現するのに」と夢見ていたときからちょうど20年が経っていた。いま※2亀山工場で量産されている最大サイズ、65V型を開発したとき、すべての計算がシミュレーション通りだったという。それは30年以上積み重ねてきた液晶技術の、ひとつの到達点であったのかもしれない。当時、彼の視野には「100型までいける」とはっきり見えた。
現在、自宅で“亀山モデル”を楽しんでいる彼は、大画面で見るフルスペックハイビジョンの美しさに「見る番組が変わりますよ」と笑う。
「まず、映像を見て感動していただきたい。同時に、お買い上げいただける価格でないといけない。大画面だから、という言い訳があってはいけないのです」。
液晶に限界がないことを証明した彼の目は、すでに次の目標に向いている。それは、これまでと同じように、だれも作ったことのない未知の領域だろう。また「記憶に残る仕事をしよう」と自分に言い聞かせているにちがいない。
※1 2007年1月8日現在
※2 2007年2月20日現在